小林裕和
(株)グリーン・インサイト・代表取締役/静岡県立大学・名誉教授・客員教授
今年4月よりNHK 「新プロジェクトX」 が始まった。旧 「プロジェクトX」 (2000年3月〜2005年12月) の第1回で取り上げられたのが、富士山レーダー設置だった。富士山レーダーは1964年から1999年まで稼働した。現在、富士山レーダーは、「富士吉田市立富士山レーダードーム公園」 に移設保存されており、富士山測候所は、「NPO法人 富士山測候所を活用する会」 により夏季のみ観測が行われている。
「富士山」 は眺望あるいは登山の対象でもあり、歴史的には畏怖の念を持って崇められてきた。記録に残る大規模噴火は、864年〜866年 (貞観6年〜7年) と1707年 (宝永4年) であり、1083年〜1427年と1511年〜1704年は、長期に渡り噴火活動が停止。これら以外の期間は、永続的に小規模な噴火や噴気が観察されている。江戸時代までの日本人の平均寿命は45歳と言われており、各人の生涯において噴火に遭遇するか否かにより、富士山に対する認識は大きく異なることが予想される。富士山に関する最初の記録は、713年に編纂された 「常陸国風土記」 に 「福慈岳」 として登場。600年代から759年までの歌が収録された 「万葉集」 では、山部赤人による 「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ不二の高嶺に雪は降りける」 が有名。すなわち、「不二山」 あるいは 「不尽山」 とも呼ばれた。「富士山」 との表記は、都良香 (834年〜879年) による 「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」 に端を発すると考えられる。864年からの大規模噴火において、北西麓から噴き出した溶岩により、その後の樹海、本栖湖、精進湖、西湖ができたとされている。大規模噴火の報せが平安京に届くと、朝廷はこの原因を大神祭祀の怠慢とし、駿河 (現:静岡県中部) に 「鎮謝」、甲斐 (現:山梨県) に 「奉幣解謝 (捧げものをして祀る)」 との下知。これにより、富士山は 「遙拝 (ようはい)」 の対象となった。1216年に完成した 「新古今和歌集」 には、西行 (1118年〜1190年) による 「風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな」 と、富士山の煙が詠われている。この時期は火山活動の停滞期であり、この 「煙」 は、「煙雲」 を指すと捉えるのが自然である。松尾芭蕉 (1644年〜1694年) の弟子である宝井其角 (1661年〜1707年) は、「空蝉や富士を見ぬ日ぞ面白き」 と詠んでいる。この句は、噴火による煙や灰で富士山が見えなくなることの奇妙さや異常さを表している。
日本最古の物語 「竹取物語」 は900年ごろの成立とされるが、作者不詳。そのエピローグ。
「何いづれの山か天に近き。」 ととはせ給ふに、或人奏す、「駿河の国にある山なん、この都も近く天も近く侍る。」 と奏す。(中略) 不死の薬の壺ならべて、火をつけてもやすべきよし仰せ給ふ。そのよし承りて、兵士つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山をふしの山とは名づけゝる。その煙いまだ雲の中へたち昇るとぞいひ傳へたる。
このとき活火山となり、「不死山」 の名を拝する。かぐや姫は、天に召される前に、「今はとて天のはごろもきるをりぞ君をあはれとおもひいでぬる」 と詠んだ。この 「羽衣」 は、歌川広重 (1797年〜1858年) の 「冨士三十六景」 の1つ、「駿河三保之松原」 として富士山と共に描かれている 「三保」 の 「羽衣伝説」 にも通じる。共に 「羽衣」 を纏うことにより天に昇る。羽衣伝説は日本のみならず世界各地に伝わる民話とされており、竹取物語とは起原が異なると考えるの方が無理がない。
富士山はかつて休火山とされていたが、2003年に火山噴火予知連絡会は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山および現在活発な噴気活動のある火山」 を 「活火山」 と定義し直した。富士山は活火山であり、次の噴火時期が気になる。富士山は、過去3200年間で100回噴火しており、したがって、平均値としては30年間に1回の割合となる。南海トラフ地震は、宝永地震 (1707年)、安政地震 (1854年)、昭和南海地震 (1946年) と、概ね100年から150年周期で発生している。この規則性から計算すると、次の南海トラフ地震は2040年頃までに発生する可能性が高いと考えられている。静岡県立大学理事長・学長を務められ、懇意にさせていただいている尾池和夫先生 (元京都大学総長) は、「2038年:南海トラフ巨大地震」 を執筆された。宝永地震は富士山噴火と連動しているが、過去には地震と噴火が同調していない例も見出せる。何れにしても、「富士山」 は遙拝の対象であることを忘れてはならない。
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