小林裕和
(株)グリーン・インサイト・代表取締役/静岡県立大学・名誉教授・客員教授
テレビドラマ 「華麗なる一族」 [2007年版:主演, 木村拓哉 (1972年〜)] のロケ地にもなった 「日本平」 からは、北東に富士山、東に三保半島を経て駿河湾、さらにその先に伊豆半島、南に太平洋、北西に南アルプス (赤石山脈)、北側眼下に静岡の市街地を望むことができる。これら富士山の夕景や市街地の夜景を眺望しながら、日本平ホテルでコーヒーを飲むと、1杯870円。私はその山麓、静岡市清水区草薙一丁目に住んでいる。この 「草薙」 という名称は 「草薙剣 (くさなぎのつるぎ)」 を連想させる。また、一丁目は 「天皇原」 と呼ばれ、「天皇原公園」 として今に残る。その南東500 mほどの地に 「草薙神社」 が鎮座する。さて、これらの日本を代表するような、かつ神話を彷彿とさせる地名。この地で一体何が起こったのであろう。720年に編纂された日本書紀からは、ヤマトタケル (日本武尊:生没年不詳) が、「東征」 の一環として訪れた駿河の野原で火攻めに遭い、叔母の倭姫命 (やまとひめのみこと) から託された天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ) が草を薙ぎ掃い、彼は九死に一生を得た。そこで、この剣を 「草薙剣」 と呼ぶと解釈される。当地にはその時代以降の古墳群が多数見出されるが、天皇原から東に300 mの箇所に 「首塚稲荷」 があり、ここにはヤマトタケルに討ち取られた部族が祀られているとの伝説がある。ヤマトタケルの父親である景行天皇 (生没年不詳) がこの地を巡幸し、ヤマトタケルの霊を奉斎するために、草薙剣を神体として奉納し草薙神社を創建したとの記録。後に、草薙神社は現在の地に遷座したとのこと。したがって、「天皇原」 との呼称の謂れが理解される。ヤマトタケルのこの活躍は、300年〜400年の間の何れかと推定され、その後686年に天武天皇 (〜686年) の勅命により、草薙剣は名古屋の熱田神宮に移されたと伝えられる。
大井川の西岸から、安倍川、富士川を含み沼津の辺りまでが 「駿河」 と呼ばれる。この地は、北西の南アルプスと北東の富士山が北風を遮り、それに暖流が影響するため、温暖であり、海の幸にも恵まれる。草薙から南西に約5kmのところに、「登呂遺跡」 があり。ここは一級水系 「安倍川」 の河口に近い肥沃土壌に恵まれ、弥生時代後期にあたる1世紀頃、稲作により豊かな生活が営まれていた。その後、この地は近畿地方を中心とした政権に対する東勢力の対決の場となってきた。その最初が、古墳時代 (200年代中期〜) の初頭、ヤマトタケルによりヤマト王権に下る。2022年のNHK大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 に登場したように、平安時代後期1180年に、源頼朝 (1147年〜1199年)・武田信義 (1128年〜1186年) 連合軍が平維盛 (たいらのこれもり:1159年〜1184年頃) と富士川で交戦。これは一連の 「治承・寿永の乱」 の一部とされている。「吾妻鏡 (あづまかがみ)」 に 「その羽音はひとえに軍勢の如く」 とあるように、武田の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。これにより鎌倉時代へと進んでいく。その後1335年、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇 (1288年〜1339年) が新田義貞 (1301年〜1338年) に足利尊氏 (1305年〜1358年) 追討命じ、新田軍と足利軍とが安倍川西岸河口付近の手越 (てごし) 河原で激突。これは 「手越河原の戦い」 と呼ばれ、「手越河原古戦場跡」 が今に残る。ここでは新田軍が勝利するが、足利尊氏の室町幕府へと歴史は大きく動く。その後、この地は今川氏が統治。今川義元 (1519年〜1560年) の時代には、戦乱を逃れた京の都の公家や文化人が転入し、「東 (国) の都」 あるいは 「東 (国) の京」 と呼ばれるような繁栄を見せた。桶狭間にて義元が死して以降は、徳川家康 (1543年〜1616年) による統治へと移行し、家康はここで晩年を過ごす。その墓所は、日本平の南面の久能山東照宮に廟所宝塔 (神廟) として現在に至る。江戸時代においては、当時の幹線 「東海道」 が駿河を貫き、計12の宿場が残存する。明治時代に至って電気事業が始まり、関西ではアメリカ合衆国から60 Hz (ヘルツ) の発電機を、関東ではドイツから50 Hzの発電機を輸入した。ここは地理的に日本の真ん中であり、本州を縦断する糸魚川静岡構造線の南側に当たる富士川が太平洋に注ぐ。これにより、富士川を境として、西側は60 Hz東側は50 Hzとなった。
静岡県は、西から東に向かって、遠州 (遠江)、駿河、伊豆と呼ばれる。これらの気質を表す言葉に、「遠州泥棒」、「駿河乞食」、「伊豆餓死」。確かに、遠州は浜松市を中心として、世界に冠たる工業生産企業が点在し、力強さを感じる。駿河は静岡市を中心として、上記のごとく食うに困らない地であり、商業が主要産業。伊豆は観光産業が主力であり、首都東京への通勤圏でもあって、性格は大人しめか。このように地政学的に歴史を見ると、「駿河」 の魅力に自然と肯ける。
Comments