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執筆者の写真Hirokazu Kobayashi

喉元過ぎたコロナ禍:その社会的・科学的意義

更新日:2024年7月11日

小林裕和

(株)グリーン・インサイト・代表取締役/静岡県立大学・名誉教授・客員教授

 

いつまでマスクをするべきか、終わりに近いことは間違いない。新型コロナウイルス感染者数は、2024年2月のピークで、世界、国内共に10回目の波とされる。コロナ禍を通して、世界的死者数は700万人、国内のそれは8万人弱となる。当事者およびご家族には哀悼の意を、医療関係者には敬意を表させていただきたい。過去のパンデミックと比較すると、1347年〜1352年に流行したペストの死者は、ヨーロッパを中心にして8,000万人といわれる。1918年〜1920年のスペインかぜにおいては、世界規模で死者数1億人と見積もられている。その際の国内死者数は約45万人と推計されている。新型コロナウイルスの感染者数では、世界的に7億人、国内で4,000万人と見積もられる。集団免疫を得るには少ない数字であり、2023年ノーベル生理学・医学賞の受賞対象となったカタリン・カリコ (1955年〜) とドリュー・ワイスマン (1959年〜) の研究に基づくRNAワクチンの功績は大きいと言える。

 

この間、人との接触を避けての社会活動の維持が強いられ、既存のインターネットやデジタル通信技術にさらなる実践が求められた。インターネット・インフラが整備されていた北米、北欧、韓国、日本などで、授業、会議、医療相談、イベントなどに活用された。体験者が少ないと思うので、オンライン告別式を紹介する。私の父母は、97歳と93歳という高齢であった。入居していた京都府福知山市の老人ホームでは、新型コロナウイルス感染に最大の注意が払われ、2020年3月以降、家族の面会に制限が入るようになり、透明な仕切りがある面会室にて、面会時間は20分程度に限定された。私の居住地は静岡市であり、父母が暮らす老人ホームとは400 kmほど離れているため、頻繁に会いに行けず、寂しい思いをさせたことと思う。そのコロナ禍をほぼ乗り越えた昨年夏に相次いで他界した。この頃は、第9波のピーク時であった。そこで、告別式はオンラインにしたいと考えた。しかしながら、福知山市内にはオンライン対応の葬儀会場は見つからなかった。オンラインに協力するという会場はあったが、カメラや機材は常備されていなかった。したがって、そのような機材を提供してくれる会社を探した。結局、私の希望に合致する会社は1社のみ。しかも、近畿圏にもサービスを提供する東京の会社だった。そこに依頼したが、死去は金曜日の深夜、しかも次の月曜日は 「海の日」 のため3連休。その結果、高画質にも耐え得る回線速度を確保できる機材を用意できなかった。結局、神戸からカメラマン付きでカメラが告別式会場に到着。発信は私のiPhoneでのテザリングとなった。録画画像は、高解像度で後ほど手に入ったが、オンライン発信は、これなら自分でできると考えた。母の告別式ではプロを利用せず、自分ですべてをこなした。むしろ、四十九日の納骨などは、墓場から、iPhoneのみで動画を発信すれば目的が叶うことが分かった。その際、アプリはZoomを用いた。これは葬儀の一例であるが、このように簡単にオンラインでイベントが発信でき、参加者は現地に赴く必要はなくなった。

 

アカデミアの分野でも、オンラインでの会議や授業はその前から普及しつつあったが、コロナ禍でこれに拍車が掛かった。新型コロナウイルス感染の予防、検出、治療技術の開発は一刻を争う。従来、研究論文はその内容の審査を経て発表されたが、コロナ禍においてはプレプリントとして、審査を経ずに発表されることが増えた。また、論文としてまとめる手間を省き、生データが公開される方向に進んだ。その結果、研究者には、膨大な情報の中から信頼できるデータを見極める能力が求められるようになった。この流れを 「オープン・サイエンス」 と呼ぶ。ヒトは集団として、コミュニケーションを図ることで、地球上生物の頂点に立っている。この間、コミュニケーション手段として、口頭 → 手書き文字 → 印刷 [ヨハネス・グーテンベルク (1398年〜1468年) の活版印刷, 1439年] → 「デジタル革命」 に至った。また、多くの業務は、人が移動せずともオンラインにて実施でき、移動交通手段への依存度が軽減した。さらに、工業生産現場ではAIによる機械化に一層拍車が掛かった。皮肉にもコロナ禍は人類社会を一歩前進させた。この改革は大きな転換点として人類の歴史に刻まれることになろう。




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